優しき母よ。
私の母はとても優しい人でした。
人を見下すとか色眼鏡で見るという事を決してしない人でした。
意識してそうするわけではなく、生まれ持ったものだろうと思います。
優しい母のまわりには同じく優しい人達が多くいました。
障害がどういうものか、障害という言葉さえよく知らなかった子供の頃の話です。
母を頼って、あるいは母と話をする為にいろんな人が我が家にやって来ました。
その中に私達兄弟が常兄ちゃんと呼んでいた男の人がいました。
常兄ちゃんは忘れた頃にやって来て、家の手伝いをしながら1日、2日泊まったりしていました。
忙しい時は家に入る事もなく、ただ父や母の顔を見るだけで直ぐに帰って行きました。
みんなでご飯を食べる時、父や母の問いかけに常兄ちゃんはただにこにことうなづくだけでした。
常兄ちゃんの受け答えはそれで良いわけで、父や母も嬉しそうに笑いながら話を続けていました。
常兄ちゃんが話すのを見た事は一度もありませんでしたが、それが特別な事だとは思いませんでした。
常兄ちゃんは車を持っていませんでした。
昔の田舎では車の普及が遅く所有者も少なかったのですが、誰もが車を持てる様になった時代にも常兄ちゃんは車を持っていませんでした。
彼の移動手段は自転車です。
我が家から常兄ちゃんの自宅までは数十キロほどの距離があり、途中結構きつい山を通り抜けてこなければならないのですがそんな事などものともせず、どこへ行くのにも自転車を使っていました。
自転車で走る常兄ちゃんが当たり前だったので不思議に思う事も、疑問に思う事もなかったのですが「車の免許が取れないから」と大きくなって親から聞いた時、初めて常兄ちゃんに障害がある事を知りました。
常兄ちゃんは遠くからやって来るのですが、知り合いはたくさんいても立ち寄るのは我が家だけでした。
他の知り合い達は常兄ちゃんに声を掛けたり、家に招き入れるという事はほとんどしませんでした。
田舎で障害者に声をかける事は体裁が悪かったか、あるいは話の出来ない常兄ちゃんに声をかけても仕方がないと思ったのか・・・
いつ、いかなる時も笑顔で優しく迎え入れてくれる母を、姉の様に慕っている常兄ちゃんの顔はいつも嬉しそうでした。
大人になり実家に帰った時、頭が白髪交じりになった常兄ちゃんが我が家に立ち寄った事があります。
常兄ちゃんはとても若々しく、相変わらず移動手段は自転車でした。
障害があり車の免許を取る事は出来ませんでしたが、いつもにこにこと幸せそうに笑っている常兄ちゃんが他人を傷つけたり、不幸にする事は決してないのだろうと思います。
常兄ちゃんが他人に傷づけられる事はあっても・・です。
父と母が立て続けに亡くなった事を常兄ちゃんは知りません。
両親に会いに我が家に立ち寄った時、既に亡くなっている事を知った彼の悲しみがどれほどのものか・・
想像したくはありません。
父が60歳を過ぎた頃常兄ちゃんの話になり、「常兄ちゃんは自分と同じ年」と父から聞かされた時、飛び上がらんばかりに驚きました。
何十年も常兄ちゃん常兄ちゃんと兄ちゃんの様な感覚で呼んでいたのに・・
まさかの・・父と同い年!?
(*´Д`)=3ハァ・・兄ちゃん、ちゃいますやん・・おじちゃんやん!?
私の数十年の「兄ちゃん」という意識と感覚を返して欲しいです
ズボンの落書き・・
芸術じゃね!?
エテを母に会わせたかった
エテを母に会わせたかったです。
傷つきやすい、障害を持つ我が子を見て欲しかったです。
そして悩み多き私の話し相手として母が、今目の前にいてくれたらなあと思います。
心優しき母は、私に何と言ってくれるだろう・・・
傷ついたエテに何と声をかけてくれるだろう・・・
なあ~んてね(´· ·̀)
この年になって、とうの昔に亡くなった母を頼りにしようなんて・・・
どうかしてるぜ・・・